自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

けんかえれじい 1966年

軍靴と十字架

1966年、日本、鈴木清順監督、新藤兼人脚本

 昭和10年(1935年)、備前岡山第二中学の南部麒六(キロク)は喧嘩の達人「すっぽん」から喧嘩の極意を教わる。しかし軍事教練の教官と衝突して会津若松の喜多方中学へ転校する。そこでも喧嘩に明け暮れる毎日だった。彼の憧れの女性、道子は修道女になるという。

f:id:hnhisa24:20190715093104j:plain
薄暗いカフェで流行歌のレコードを聴く女給のけだるさ、新聞を読んでいた中年男の不敵な笑み、麒六はその男を忘れることが出来なかった。

東京では2・26事件の反乱軍兵士たちが道子を押し倒して、早朝の雪の中をザックザックと駆けてゆく。雪道に落ちた道子の十字架が軍靴に踏まれていく、このシーンは秀逸だった。

2・26事件で東京は戒厳令下にあった。駅で事件の号外を読んだ麒六はカフェの不敵な笑みの男が2・26事件の思想的指導者、北一輝だと知り「東京へ行くぞ」と汽車に乗る。煙をあげながら汽車は一路東京を目指す。

f:id:hnhisa24:20190715093212j:plain

大不況で国民が困窮し、青年将校たちが反乱をおこし、政府高官たちが殺害され、政治が大きく揺れ動く時代だった。やがて日本は軍部の発言力が高まり、戦争という「大きな喧嘩」に突入してゆく。

戦争前夜の時代、バンカラ学生の喧嘩に明け暮れる青春をコメディタッチで描いた映画。

リリィ、はちみつ色の秘密

60年代、南部の黒人女性たち

2008年、アメリカ、ジーナ・プリンス=バイスウッド監督

 14歳のリリィの衝撃的なモノローグで映画は始まる。「4歳の時、ママを殺した、私がやったのよ」、リリィは大好きなママを殺してしまった。

f:id:hnhisa24:20190712085124j:plain

1964年、サウスカロライナ州のシルヴァン、暴力的な父親から逃れ、「ママはなぜ4歳の私を捨てたの」とリリィは黒人のメイド、ロザリンとヒッチハイクで、ママの遺品のなかに書かれていた南部の小さな町ティブロンの養蜂場を訪ねる。

 養蜂場で黒い聖母マークの蜂蜜をつくっていたのは長女のオーガスト(8月)、次女のジューン(6月)、三女のメイ(5月)の3姉妹で、当時の黒人家族としては珍しく資産も知識もあった。そこで暮らすうちにオーガストがリリィのママの子守だったことがわかる。リリィは「私はママに愛されていたの?」とオーガストに尋ねる。オーガストは真実を話す。

f:id:hnhisa24:20190712085310j:plain

60年代はまだまだ南部の町では黒人差別が色濃く残っていた。1964年7月2日、キング牧師の運動が功を奏し、ジョンソン大統領が人種差別を禁止する公民権法に署名した。しかし黒人への差別は日常茶飯事で、黒人たちが初めて選挙権の登録をするのも命がけだった。メイドのロザリンも選挙権を登録しようとして白人に殺されそうになっていた。

 「ママはなぜ私を捨てたの」真実を知りたいリリィと、黒人差別の町で「黒い聖母」を信じて生きる黒人3姉妹の蜂蜜のように甘くてすこしほろ苦い物語。

原題は「The Secret Life of Bees」

ガンジスに還る 2016年

眠るように死にたいと誰もが夢見る

2016年、インド、シュバシシュ・ブティヤニ監督

 77歳のダヤは何度も同じ夢をみて、自分の死期を悟った。彼はこの世に疲れてしまって、生きることが億劫になったら潔く死を迎え入れよう思っていた。そして死をむかえる人たちが暮らすガンジス河畔の聖地バラナシの施設「解脱の家」に行くと言い出す。家族は反対するがダヤの決心は変わらなかった。仕方なく仕事人間の息子ラジーヴが同行して母なるガンジス河に向かう。

f:id:hnhisa24:20190709083644j:plain

18年間も「解脱の家」に滞在しながら死を迎えることの出来ない女性がいた。ダヤはその女性と親しくなるが、彼女が亡くなるとまるで導かれるようにダヤも死を迎える。「解脱の家」に来てからひと月足らずだった。

 死ぬことそのものが誰にとっても最後で最大のドラマだろう。それをコメディタッチで軽くも重くもなく描き、歌も踊りもないインド映画だった。

f:id:hnhisa24:20190709083813j:plain

「婚礼」「葬儀」「料理」など世界は多様な文化にあふれている。そして「死の形」や死の受け取り方もそれぞれの文化によって違うのだろう。この映画では死ぬことはおおきな流れに身をまかせ、眠るように元の場所に「還る」ことにすぎなかった。

 高齢化社会になって私たちは長寿が必ずしも幸せでないことを学んだ。死ぬことよりも苦しみながら生き続けることに恐怖を感じるようになった。

私たちに「還る」場所はあるのか。