自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

この森で、天使はバスを降りた

子どもにチャンスだけは与えたい

1996年、アメリカ、リー・デビッド・ズロトフ監督

 パーシーは5年間の刑期を終えて出所した。メイン州の田舎町ギリアドの軽食カフェで働くことになる。よそ者の彼女は町の人たちの好奇の眼にさらされる。カフェの女主人ハナは店を売りに出していたが、買い手が見つからなかった。

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パーシーは100ドルで応募できる作文コンテストで参加者に「なぜこの町のカフェが欲しいのか」を書いてもらい、その中から優勝者を選び、賞品としてカフェを譲るのはどうかと提案する。広告を出すと驚くほどの作文が集まった。その参加費だけでカフェの売り代金を上回っていた。住民たちは応募作文を回し読みしていつしか町に活気が戻ってくる。

「100ドルは一度には払えませんが、この子のために応募しました。この子に必ずチャンスだけは与えてやろう・・・絶対にチャンスだけは」

やがてコンテストの優勝者のシングルマザーが赤ちゃんを背負ってバスから降り立つ。

 

珠玉という言葉にふさわしいフィンランド映画ヤコブへの手紙」

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終身犯の女性レイラは恩赦で12年の刑期で出所してきた。盲目のヤコブ神父のもとに住み込んで働くことになる。彼女の仕事はヤコブ神父に送られてきた手紙を読み、返事を書くことだった。レイラは手紙を読むふりをして自分の身の上を話しだす。

 

どちらも美しい自然の片田舎を舞台に、殺人という罪を背負い刑期を終えた二人の女性の哀しくも心温まる物語だった。

捜索者 1956年

デビー、家に帰ろう

1956年、アメリカ、ジョン・フォード監督

1868年、テキサス、開拓地の家の扉を開くと荒野に馬上の男の姿が見える。南軍の元兵士イーサンが兄夫婦一家を訪ねてきたのだ。兄の一家はイーサンを大歓迎する。

イーサンが牛泥棒を追っている隙にコマンチ族が兄の一家を襲い皆殺しにする。ところが9歳の娘デビーはコマンチに連れ去られていた。

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家族同然に育てられたインディアンの血を引くマーティンとイーサンはともにコマンチにさらわれた姪のデビーを捜す長い旅にでる。イーサンは頑固で一徹な西部男だった。彼は執念深い捜索者となって何年も追い続ける。

 「もう白人じゃない、コマンチの女だ」イーサンはデビーを家に連れ戻すのではなく殺すつもりだった。それは肉親への憐憫というものだった。マーティンはそれに強く反発する。

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インディアンに捕虜にされた何人もの白人女性たちが助け出されるが、だれもが精神に異常をきたしていた。これがインディアンに連れ去られた白人女性の末路だった。

この映画にはインディアンの残虐と白人の非道、憎しみの連鎖、お互いに理解できない文明の衝突という生々しい時代背景があった。 ここには今の世界にも通じるものがある。 

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 オープニング、開拓地の家の扉が開き、そしてエンディングで扉は閉じられる。イーサンはただ一人、荒野の吹きすさぶ砂塵の中を歩く・・これはまさしく正統派の西部劇だ。しかしその中に社会性を持ち込んだ見事な西部劇でもある。

「時間旅行者」という夢

滅びた文明を訪ねてみたい

 世の中に旅行者はたくさんいるが時間旅行者はまずいない(と思う)。

もし私が時間旅行者だったら江戸末期、明治初期(1850年頃)の日本を訪ねてみたい。その時代に日本を訪れた多くの西洋人が日本の生活と日本人の印象を書きしるしている。

渡辺京二「逝きし世の面影」にそれが紹介されていた。当然のことながら西洋人たちは日本について批判も称賛もしていた。しかし一様に驚いていたのは日本の自然景観の美しさだった。

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時間旅行者となってその時代の江戸、大坂、京都、そして私の住んでいる町を訪ねてみたい。どのような景観だったのだろうか。西洋人に「妖精の国」「絵のような社会」といわれた日本にはどのような世界が広がっていたのだろう。

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渡辺はこう語っている。「私の意図するのは古きよき日本への哀惜でもなければ、それへの追慕でもない」「この国の文明が、人間の生存をできうる限り気持ちのよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていた」

「ダークサイドのない社会などない。いかなるダークサイドを抱えていようと、江戸期ののびやかさは今日的な意味で刮目に値する」「しかし、人類史の必然というものはある。古きよき文明はかくしてその命数を終えねばならなかった」

 

 時間旅行者となって滅びた江戸末期の文明と美しい景観を「日本人の眼」で確かめてみたい。

浮き雲 1996年

シュールでもリアリズムでもない世界

1996年、フィンランドアキ・カウリスマキ監督

 路面電車の運転士ラウリとその妻でレストランの給仕長イロナ、同じ時期に二人は失業してしまう。世の中は不況でいくら探しても仕事は見つからなかった。テレビや家具も売ってしまう。

仕方なく昔の仲間たちとレストランを開こうと考えるが、肝心の資金はなく銀行も融資してくれなかった。

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映画はジャズの弾き語りのシーンから始まる。そしてバンドのライブ演奏がありどこか懐かしい曲、浮世離れした登場人物たち、ぎこちなく短い会話、とぼけた顔の愛犬、独特な色彩、子供を亡くした夫婦のつつましい暮らし、辛くて悲しいのになぜか可笑しい・・そこにはいつものカウリスマキ的世界があった。

違うのは珍しくハッピーエンドだということだ。

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淡々と物語がすすむにつれて私たちはカウリスマキの世界に徐々に引き込まれてゆく。一度この奇妙な味を覚えてしまうと虜になってしまい、もう引き返すことはできない。どのようなシーンでもユーモアを感じさせるのがカウリスマキの真骨頂だ。

どことなくフィンランド版「歌謡曲だよ、人生は」のような気もする。

私にとって初めてのカウリスマキ作品が「浮き雲」だった。まずその独特の世界観と演出に驚いたものだ。初体験の「刷り込み」のせいなのか彼の作品の中でも一番好きな映画であり、もちろん傑作だと思っている。

スティーグ・ラーソン「ミレニアム」3部作

北欧ミステリーの圧倒的な面白さ

映画「ドラゴンタトゥーの女」はアメリカ版、スウェーデン版、どちらもとても面白い作品だった。しかし原作であるスティーグ・ラーソンの小説「ミレニアム」には到底及ばない。小説は「ドラゴンタトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」の3部構成。

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第1部は孤島で40年近く前に起きた少女の行方不明の事件の捜査をする記者ミカエルと、天才的ハッカーで異様なスタイルのドラゴンタトゥーの女リスベットの活躍と元ナチの大富豪一族をえがくミステリーだった。

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第2部はリスベットの出生の秘密と凄まじい過去が暴かれる。そしてソ連のスパイの亡命、コンピューター犯罪など、リスベットが特異な才能を生かすスリルとサスペンスあふれる物語になっている。「父さん、殺しに行くからね」 とリスベットはつぶやく。

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 第3部は一転して、警察から精神異常の殺人者と思われているリスベットは瀕死の重傷で入院している。彼女を救うためにミカエルはリスベットに味方する人たちを集めて「狂卓の騎士」を結成する。名前の由来はアーサー王物語の「円卓の騎士」だった。

公安警察、検察官、法務大臣、首相、マスコミ、ギャングなどを巻き込んだ国家的な大事件になり、法廷での裁判シーンが最高の見せ場になる。

 

 リスベットというヒロインの異様な風貌と強靭さ、波乱万丈のストーリー、100人近い登場人物というスケールの大きさ。ミステリー、サスペンス、スパイ、法廷劇、サイコ、警察小説、ハッカー、報道・・と様々な面白さがつまった一級品の小説で、読み始めると食事するのも眠るのも惜しかった。