自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

シェイプ・オブ・ウォーター

水の形とは

2017年、アメリカ、ギレルモ・デル・トロ監督

1960年代のアメリカ、政府の秘密研究所で清掃員として働くイライザは声を出すことが出来なかった。アマゾンで神と崇められる不思議な生き物が研究所に持ち込まる。それは映画の半魚人のような姿をしていた。

その不思議な生き物「彼」とイライザはいつしか心を通わせてゆく。しかし「彼」は生体解剖されることになり、イライザたちは「彼」を研究所から連れ出し家にかくまう。 

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「美しい人魚に恋する人間の男」のロマンチックな物語にくらべると「半魚人に恋する人間の女」の異様さ。そして主人公のイライザの自慰シーンから始まり、半魚人と人間の女のセックスを想像させる凄さ。

「男」と「女」の狂おしい愛の形。映画全編に漂う生々しいエロティシズム。50年代アメリカのパルプマガジンのいかがわしさ。あるいはフォークロアの世界に紛れ込んだような不思議な体験。

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マジョリティは「彼」を醜いといい、マイノリティは「彼」を美しいと言う。

名作とは言えないかもしれないが記憶にのこる映画であることは間違いない。「記憶に残る映画であること」はとても名誉なことだ。

 

それにしても水はどのような形をしているのだろう。生命は太古の海の中で誕生した。とすれば「水」は「神」の形をしているのではないか。

この森で、天使はバスを降りた

子どもにチャンスだけは与えたい

1996年、アメリカ、リー・デビッド・ズロトフ監督

 パーシーは5年間の刑期を終えて出所した。メイン州の田舎町ギリアドの軽食カフェで働くことになる。よそ者の彼女は町の人たちの好奇の眼にさらされる。カフェの女主人ハナは店を売りに出していたが、買い手が見つからなかった。

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パーシーは100ドルで応募できる作文コンテストで参加者に「なぜこの町のカフェが欲しいのか」を書いてもらい、その中から優勝者を選び、賞品としてカフェを譲るのはどうかと提案する。広告を出すと驚くほどの作文が集まった。その参加費だけでカフェの売り代金を上回っていた。住民たちは応募作文を回し読みしていつしか町に活気が戻ってくる。

「100ドルは一度には払えませんが、この子のために応募しました。この子に必ずチャンスだけは与えてやろう・・・絶対にチャンスだけは」

やがてコンテストの優勝者のシングルマザーが赤ちゃんを背負ってバスから降り立つ。

 

珠玉という言葉にふさわしいフィンランド映画ヤコブへの手紙」

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終身犯の女性レイラは恩赦で12年の刑期で出所してきた。盲目のヤコブ神父のもとに住み込んで働くことになる。彼女の仕事はヤコブ神父に送られてきた手紙を読み、返事を書くことだった。レイラは手紙を読むふりをして自分の身の上を話しだす。

 

どちらも美しい自然の片田舎を舞台に、殺人という罪を背負い刑期を終えた二人の女性の哀しくも心温まる物語だった。

捜索者 1956年

デビー、家に帰ろう

1956年、アメリカ、ジョン・フォード監督

1868年、テキサス、開拓地の家の扉を開くと荒野に馬上の男の姿が見える。南軍の元兵士イーサンが兄夫婦一家を訪ねてきたのだ。兄の一家はイーサンを大歓迎する。

イーサンが牛泥棒を追っている隙にコマンチ族が兄の一家を襲い皆殺しにする。ところが9歳の娘デビーはコマンチに連れ去られていた。

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家族同然に育てられたインディアンの血を引くマーティンとイーサンはともにコマンチにさらわれた姪のデビーを捜す長い旅にでる。イーサンは頑固で一徹な西部男だった。彼は執念深い捜索者となって何年も追い続ける。

 「もう白人じゃない、コマンチの女だ」イーサンはデビーを家に連れ戻すのではなく殺すつもりだった。それは肉親への憐憫というものだった。マーティンはそれに強く反発する。

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インディアンに捕虜にされた何人もの白人女性たちが助け出されるが、だれもが精神に異常をきたしていた。これがインディアンに連れ去られた白人女性の末路だった。

この映画にはインディアンの残虐と白人の非道、憎しみの連鎖、お互いに理解できない文明の衝突という生々しい時代背景があった。 ここには今の世界にも通じるものがある。 

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 オープニング、開拓地の家の扉が開き、そしてエンディングで扉は閉じられる。イーサンはただ一人、荒野の吹きすさぶ砂塵の中を歩く・・これはまさしく正統派の西部劇だ。しかしその中に社会性を持ち込んだ見事な西部劇でもある。