自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

いつか晴れた日に 1995年

19世紀初頭、イングランドの恋愛事情

1995年、イギリス、アメリカ、アン・リー監督

  19世紀初頭のイングランド南西部、サセックス州、父が亡くなり財産はすべて長男が相続した。母と分別ある長女エリノア、多感な次女マリアンヌ、おてんばな三女マーガレットの3姉妹は親戚の小さなコテージに転居し、そこで4人の暮らしが始まった。

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当時のイングランドでは女性に相続権がなく、財産のある男性といかに結婚できるかが将来の生活を左右していた。保守的で刺激的なことの少ない日常のなかで、若い女性のいちばんの関心事は恋愛と結婚だった。そして若くない女性の関心事は「うわさ話」だった。

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原作は英国の国民的作家ジェーン・オースティン(1775~1817)の「分別と多感」

彼女には「高慢と偏見「エマ」マンスフィールド・パーク」「ノーサンガー・アベイ」「説得」など六つの長編があり、ストーリーはどれも同じで、中流階級若い女性が紆余曲折を経て、理想の男性と出会い、幸せな結婚をするというもの。古臭いと思うかもしれないが、結婚と出産が女性の一大イベントなのは今も昔もそれほど変わっていないだろう。

 なぜオースティンはいつも同じ物語を創作したのだろう。

男性優位の時代の中で、オースティンが望んだものは女性の自立、自由な恋愛と幸せな結婚生活だった。しかも彼女はそれをハッピーエンドの物語にした。生涯独身だったオースティンにとってハッピーエンドこそが彼女の夢だった。

たたり 1963年

恐怖は人類最古の感情かもしれない

1963年、モノクロ、アメリカ、ロバート・ワイズ監督

原作はシャーリー・ジャクソンの小説「丘の家の怪」(山荘綺談)

1999年に「ホーンティング」というタイトルでリメイクされている。

 ニューイングランドの郊外の巨大な館(丘の家)は幽霊屋敷と呼ばれている。90年前から家族や使用人の不審な死がつづいている。両親が亡くなった幼い娘は老婆になるまで外に出ることなく保育室で過ごした。今はだれも住むものがなく、夜になると近隣の人たちはだれも近づかない呪われた館だった。

超自然現象を研究するマークウェイ博士が霊感の強い女性エレナーと透視力のあるセオドーラ、そして館の相続人の青年ルークと超自然現象の解明に乗り出す。

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怖さとグロテスクさを映像で表現する最近のホラー映画とは違って、古典的、文学的で格調高い恐怖映画だった。不気味な怪物や幽霊が 出てくることはなく、見えない霊魂が人の心の奥深くに潜んでいる恐怖をかきたてるだけだった。

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幽霊屋敷は呼吸をしていた。生きながら邪悪な魂をもっていた。それに呼応するのは霊感の鋭いエレナーだけだった。幽霊屋敷はエレナーの心の隙をついて憑依した。 そしてエレナーもまたそれに魅入られて、屋敷と一体化することに喜びを見出した。彼女に恐怖と恍惚が同時にもたらされる。

 

孤独なエレナーを邪悪な幽霊屋敷が呑み込んでゆく。恐怖譚でありながら恐怖よりも哀切感のほうが強い映画だった。

向田邦子「父の詫び状」

向田邦子は突然あらわれてほとんど名人

 向田邦子の父は未婚の母に育てられた。当時、未婚の母が子供を育てるというのは世間の目もあり、母親にとっても子供にとっても大変なことだった。小学校卒で給仕として保険会社にはいり、苦学して支店長にまでのぼりつめた。

邦子が女学生のころに父の母親が亡くなった。その時の様子をエッセイ集「父の詫び状」のなかで次のように書いている。

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父の母親の通夜の晩に、突然社長が弔問に訪れる。

 「祖母の棺のそばに座っていた父がほかの客を蹴散らすように玄関に飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。

物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に坐る父しか見たことがなかった。それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。

肝心の葬式の悲しみはけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」

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父は家族には見せられない無様な姿で家族を守っていた。向田邦子は卑屈ともいえるその姿を「戦う姿」と表現した。でもそれはやはり見たくない光景だっただろう。

 向田邦子は1981年、台湾旅行中の飛行機事故で亡くなった。享年51歳。