自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

沢木耕太郎「ポーカー・フェース」

 

男派と女派

作家の沢木耕太郎は神田の鮨屋「鶴八」の親方に「いままでの人生で、大事なことというのは男と女のどちらに教えてもらいましたか」と訊いた。「やっぱり男かな」と親方は答えた。「沢木さんはどうなんです」沢木は「僕の場合は・・女のような気がする」

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そして沢木は無頼派と言われた坂口安吾太宰治檀一雄の3人についてこのように語っている。

「・・(女出入りの多かった)檀一雄は・・・人を恋ながら、孤独を恋う。そうした彼は彼として不変であり、女たちと暮らすことによって変わることがなかった。・・太宰治も同じであったように思われる・・

一方、三千代と暮らしはじめた坂口安吾は、自分が変わっていくことを認める柔軟さがあった・・少なくとも坂口安吾は女によって変わることを厭わなかった。そして、それが結局、教わるという事なのだ」

 

沢木耕太郎向田邦子「父の詫び状」や高峰秀子「わたしの渡世日記」の文庫版の解説を書いており、二人との親交もあったから、女性から「教わる」ことが多かったのかもしれない。特に高峰秀子は週刊誌の「私のごひいき・ベスト3」に夫の松山善三と画家の安野光雅沢木耕太郎を選んでいる。

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人は異性から「教わる」ことが多いのではないかと私は思っている。つまり男は女から、女は男からというわけだ。ところが女に訊くと「男なんてロクデナシばかり、女は大事なことを女から教わるのよ」と言われそうな気もする。