自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

リリィ、はちみつ色の秘密

60年代、南部の黒人女性たち

2008年、アメリカ、ジーナ・プリンス=バイスウッド監督

 14歳のリリィの衝撃的なモノローグで映画は始まる。「4歳の時、ママを殺した、私がやったのよ」、リリィは大好きなママを殺してしまった。

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1964年、サウスカロライナ州のシルヴァン、暴力的な父親から逃れ、「ママはなぜ4歳の私を捨てたの」とリリィは黒人のメイド、ロザリンとヒッチハイクで、ママの遺品のなかに書かれていた南部の小さな町ティブロンの養蜂場を訪ねる。

 養蜂場で黒い聖母マークの蜂蜜をつくっていたのは長女のオーガスト(8月)、次女のジューン(6月)、三女のメイ(5月)の3姉妹で、当時の黒人家族としては珍しく資産も知識もあった。そこで暮らすうちにオーガストがリリィのママの子守だったことがわかる。リリィは「私はママに愛されていたの?」とオーガストに尋ねる。オーガストは真実を話す。

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60年代はまだまだ南部の町では黒人差別が色濃く残っていた。1964年7月2日、キング牧師の運動が功を奏し、ジョンソン大統領が人種差別を禁止する公民権法に署名した。しかし黒人への差別は日常茶飯事で、黒人たちが初めて選挙権の登録をするのも命がけだった。メイドのロザリンも選挙権を登録しようとして白人に殺されそうになっていた。

 「ママはなぜ私を捨てたの」真実を知りたいリリィと、黒人差別の町で「黒い聖母」を信じて生きる黒人3姉妹の蜂蜜のように甘くてすこしほろ苦い物語。

原題は「The Secret Life of Bees」

ガンジスに還る 2016年

眠るように死にたいと誰もが夢見る

2016年、インド、シュバシシュ・ブティヤニ監督

 77歳のダヤは何度も同じ夢をみて、自分の死期を悟った。彼はこの世に疲れてしまって、生きることが億劫になったら潔く死を迎え入れよう思っていた。そして死をむかえる人たちが暮らすガンジス河畔の聖地バラナシの施設「解脱の家」に行くと言い出す。家族は反対するがダヤの決心は変わらなかった。仕方なく仕事人間の息子ラジーヴが同行して母なるガンジス河に向かう。

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18年間も「解脱の家」に滞在しながら死を迎えることの出来ない女性がいた。ダヤはその女性と親しくなるが、彼女が亡くなるとまるで導かれるようにダヤも死を迎える。「解脱の家」に来てからひと月足らずだった。

 死ぬことそのものが誰にとっても最後で最大のドラマだろう。それをコメディタッチで軽くも重くもなく描き、歌も踊りもないインド映画だった。

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「婚礼」「葬儀」「料理」など世界は多様な文化にあふれている。そして「死の形」や死の受け取り方もそれぞれの文化によって違うのだろう。この映画では死ぬことはおおきな流れに身をまかせ、眠るように元の場所に「還る」ことにすぎなかった。

 高齢化社会になって私たちは長寿が必ずしも幸せでないことを学んだ。死ぬことよりも苦しみながら生き続けることに恐怖を感じるようになった。

私たちに「還る」場所はあるのか。

「寝かせる」という手法

村上春樹スティーヴン・キング

「職業としての小説家」のなかで村上春樹はこう書いている。

『工場なんかの製作過程で、あるいは建築現場で、「養生」という段階があります。製品や素材を「寝かせる」ということです。ただじっと置いておいて、そこに空気を通らせる、あるいは内部をしっかりと固まらせる。小説も同じです』

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スティーヴン・キングは「書くことについて」のなかで、小説の一次稿は最低でも6週間は机の引き出しの中にしまい込んでいると語っている。

二人の人気作家は同じように書き上げた小説を「寝かして」いる。

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スケールはまったく違うが、ブログの記事を書く場合もこれは当てはまるような気がする。書き終わってからしばらく「寝かす」ようにして、少しずつ書き直しているうちにだんだん初めとは違う視点をもった記事になり、文章も簡潔になり洗練されてくる。

もっとも記事の目的によっては違うだろうが、少なくとも「自己表現型」の記事の場合、二人の手法は参考になると思う。

 

また「誰のために書くのか?」について村上はこう語っている。

「自分のために書いている、というのはある意味では真実であると思います」「自己治癒的な意味合いもある」「自分が楽しむために書く、でも読者の存在を忘れることはできない」

 私たちと村上春樹はそれほど違うわけでもないような気がする。