自由に気ままにシネマライフ

映画に関する短いエッセイとその他

ジョジョラビット 2019年

なぜかノスタルジー

アメリカ タイカ・ワイティティ監督

第二次大戦末期のドイツ、10歳のジョジョは美しい母ロージーと暮らしていた。父はイタリア戦線で戦っていると聞かされていた。ジョジョは「ヒトラーユーゲント」の団員として毎日訓練に励んでいたが、本当は優しくて臆病な少年だった。彼には空想上の友達「アドルフ・ヒトラー」がいた。

ある日、偶然、家の中に隠れていたユダヤ人の娘エルサを見つける。母のロージーが彼女を匿っていたのだ。

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大人の目線ではなく10歳の少年の眼からみたナチズムはまるでファンタジーがコメディのようで、なぜかノスタルジーを感じてしまう。

 

母と踊るジョジョユダヤの少女と踊るジョジョ、この二つのシーンがとてもよかった。

ジョジョ「自由になったら何をするの」エルサ「・・踊るわ」二人のこの会話が最後に生かされる。

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ビートルズの「抱きしめたい」の曲で始まり、最後はジョジョとエルサが身体を軽く揺らし、それが徐々に自由になった喜びのダンスに変わってゆくシーンで終わる。この見事なラストシーンが映画のすべてではないだろうか。

 

エンディング・ロールに流れるリルケの詩「すべてを経験せよ、美も恐怖も、生き続けよ、絶望が最後ではない」

 

26年前の今日、阪神淡路大震災があった。いつの時代も「絶望が最後ではない」といえるのではないか。

マイ・ボディガード 2004年

リベンジ映画の快作

アメリカ、メキシコ トニー・スコット監督

今も昔もつまらない映画はたくさんある。つまらない映画が続くと気分転換に肩の凝らない面白い映画を観ることがある。それが「マイ・ボディガード」だった。

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貧富の格差の大きなメキシコでは誘拐がビジネスになっていた。スラムが犯罪者たちの温床だった。

会社を経営しているラモスは9歳の娘ピタのボディガードを雇う。かつて米軍の対テロ組織に所属していたクリーシーは乗り気でなかった.が、ボディガードを引き受けることになる。アルコール中毒のクリーシーはピタと親しくなるのを避けていた。しかしピタに対して父親らしい感情が徐々に芽生えてくる。

 

ある日、クリーシーは銃で撃たれ重傷を負い、ピタは誘拐され殺されてしまう。クリーシーは復讐を誓い誘拐犯たちを皆殺しにしようとする。

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前半はクリーシーがピタに癒されていく展開で、どこかヒューマンタッチの物語、デンゼル・ワシントンの知性的な雰囲気とダコタ・ファニングの抑えた演技がとてもよかった。

ところが後半にはいるとガラッと変わり、凄まじい復讐劇になる。とくに誘拐犯たちを追い詰めて圧倒的な暴力で情報を引き出してゆくシーンは、バイオレンス映画の醍醐味いっぱいで思いっきりのカタルシスがあった。

 

ところがこの誘拐劇には思いがけない人物がかかわっていて意外な結末を迎える。

 ヒューマンドラマとアクション映画という二つの顔をもった作品で、もちろんエンタメ要素もたっぷりの快作だった。

小堀純編「中島らもエッセイ・コレクション」

中島らもの世界を測る物差しが見当たらない

規格外の男、中島らもにも師匠がいた。

「先生ごぶさたしています」「おう、中島か、何や」「何やって、先生がこの前、たまには顔でも見せんかバカ、って電話くださったから」「ふうん、で・・・何しにきた」「何しにって、だから・・・」「用がないなら帰れ」

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朝日新聞に連載中の「明るい悩み相談室」に相談があった。

「私はおばあちゃんに昔、じゃがいもの焼いたのにミソをつけて食うと死ぬぞっ、とおどされました。・・・じゃがいもにミソをつけて食べると死ぬのかどうか知らずに私は死にたくありません、ぜひ教えてください」

あんまりアホらしい相談にこう答えている

「じゃがいもの焼いたのにミソをつけて食べると死ぬというのはほんとです。・・・現に私の知人のおじいさんも、九十八歳で亡くなるいまはのきわに、『ああ、あのとき、十六のときにじゃがいもの焼いたのにミソをつけて食いさえせなんだら死なずにすんだものを』と絶叫しながらみまかったということです」

 

「俺のオヤジは当時、内村鑑三の提唱する『無協会派』のキリスト教徒だった。その人に何を思ったのか十二歳の僕が『般若心経』を贈ったのだ。オヤジはそれからしばらくしてキリスト教を捨て、仏教に帰依してしまった」

 

ラリリのフーテン、薬物中毒者、アル中、躁うつ病患者だった中島らも、その体験談は実にユニークで、私が100年生きてもこんな体験はできないだろう。

 

彼は2004年、52歳で亡くなった。どのような人生だったのだろう。