向田邦子は突然あらわれてほとんど名人
向田邦子の父は未婚の母に育てられた。当時、未婚の母が子供を育てるというのは世間の目もあり、母親にとっても子供にとっても大変なことだった。小学校卒で給仕として保険会社にはいり、苦学して支店長にまでのぼりつめた。
邦子が女学生のころに父の母親が亡くなった。その時の様子をエッセイ集「父の詫び状」のなかで次のように書いている。
父の母親の通夜の晩に、突然社長が弔問に訪れる。
「祖母の棺のそばに座っていた父がほかの客を蹴散らすように玄関に飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。それはお辞儀というより平伏といった方がよかった。
物心ついた時から父は威張っていた。家族をどなり自分の母親にも高声を立てる人であった。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に坐る父しか見たことがなかった。それが卑屈とも思えるお辞儀をしているのである。
肝心の葬式の悲しみはけし飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」
父は家族には見せられない無様な姿で家族を守っていた。向田邦子は卑屈ともいえるその姿を「戦う姿」と表現した。でもそれはやはり見たくない光景だっただろう。
向田邦子は1981年、台湾旅行中の飛行機事故で亡くなった。享年51歳。