私たちが忘れてしまった「ひたむきさ」
1987年、イラン、アッパス・キアロスタミ監督
イランの村コケールの小学校、8歳のアマハッドは友だちのモハマッド・ネマツァデのノートを間違って持ち帰ってしまう。ノートがないとネマツァデは退学になってしまう。アマハッドはノートを返しに行こうとするが、ネマツァデの家を知らなかった。訪ね歩きながら探すがなかなか見つからない。やがて日が暮れてくる。
ノートを返そうとする8歳の少年アマハッドの「ひたむきさ」が物語の主旋律であり、欧米や日本では現実味がなく、まったく思いつかないような物語だった。
貧しい暮らし、純朴な教室の風景、因習の村、曲がりくねった石階段、理不尽な大人たち、労働力としての子どもたち、これらはイランだけではなく、少し過去にさかのぼればどの国でも見られ、また100年ほど前の日本の光景でもあっただろう。そこで繰り広げられる物語にはどこか昔話のような懐かしさがある。
欧米の映画に比べると大きなドラマはなく、映画の原型のような物語なので、人によってはすこし退屈になるか、それとも新鮮さに深く感動するか、といった違いがあるかもしれない。
大きなドラマはないが、じっくりとみればあちこちに澄み切った湧き水のような小さなドラマがある。
何よりもやがて迎えるラストシーンの鮮やかさに胸がつまり、その時、初めてこの映画を初めから振り返ってみたくなる。