現代の御伽草子
作家が寂寥感あふれる群馬県の温泉宿に宿泊する。彼が温泉につかっていると、ガラス戸をガラガラと開けて、猿が低い声で「失礼します」と言って、風呂場に入ってきた。「背中をお流ししましょうか」作家は「ありがとう」と言った。
名前は「品川猿」といい、ブルックナーの交響曲7番第3楽章が好きだと言う。
作家は「もしよかったら、少し君の身の上話を聞かせてもらえないだろうか」と訊いた。品川猿はビールを飲みながら話した。
猿社会にも人間社会にも受け入れられない品川猿は、究極の孤独のなかにいた。そして人間の女性にしか恋情を抱けない体質になっていた。でも人と猿ではどうしようもなかった。だから愛した女性の名前を盗むことにした。
それから5年後、作家は旅行雑誌の美しい女性編集者と打ち合わせをしていた。携帯電話の呼び出し音が鳴り、女性編集者は電話にでた。そして作家にこう聞いた「私の名前はなんでしたっけ」
「テーマ?そんなものはどこにも見たらない。ただ人間の言葉をしゃべれる老いた猿が群馬県の小さな町にいて、温泉宿で客の背中を流し、冷えたビールを好み、人間の女性に恋をし、彼女たちの名前を盗んでまわったというだけのことだ」
幻想と現実が共存する世界、そして御伽草子の物語。「究極の恋情と究極の孤独」を感じさせる見事な短篇。